メインメニュー 政治政治のページへ経済のページへ社会のページへ文化のページへメインメニュー 政治

 


          

 

朝日新聞2012年3月15日朝刊トップ

テニス 4大大会(グランドスラム)

東宮職医師団見解文:皇太子妃

いわきプレステージカントリー倶楽部

島田紳助

 


長い間月刊誌でご愛読くださった皆様には、今後はウェブサイトでご愛読いただけますと大変有り難く存じます。


政界往来の使い方

 

政界往来へのご出稿について

 

 

文化 / CULTURE

《経済小説》「維新銀行」・・・第一部 夜明け前(3)  【北山 譲】

往来2  公開日時:2013-02-01

 

<第一章 維新銀行の沿革(3)>
 そのため不良債権は1906年(明治39年)に、大内公爵家が全額を実質的に負担することで解決をすることになったが、第百六十銀行は大内公爵家から縁切りを申し渡されることとなった。
 二度の経営危機を何とか乗り越えたのも束の間、1912年(大正元年)に京都起業銀行に取り付け騒ぎが発生すると全国に飛び火し、第百六十銀行も取り付け騒ぎに巻き込まれることになった。事態の深刻さを憂慮した井上馨は、再建のために義理の親子関係にある桂太郎首相兼蔵相を動かし、何とか経営危機を乗り越えることができた。

 現代では時の総理大臣が、一地方銀行救済のために自ら動くことなど考えられないが、当時は藩閥政治の中で、明治政府樹立に功績のあった大内藩は数多くの総理大臣や明治の元勲を輩出しており、人脈は豊富で常に政治の中枢にいた。時の総理としても廃藩置県により大内藩から西部県となった郷土に強い愛着があり、その現れとして郷土の銀行である百六十銀行救済は、当然のことであったのかもしれない。

 1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は1918年(大正7年)11月に終息した。戦争景気を謳歌し大きくなった日本経済は、1920年(大正9年)に再び反動恐慌に陥った。
 その傷も癒える間もなく追い打ちをかけるように、1923年(大正12年)に関東大震災が発生。大打撃を受けた我が国経済は、混迷の度を更に深め、地方の小銀行は次第に経営難となり休業や破産が跡を断たなかった。その一方で政府及び日銀の救済により、表面を取り繕って生き残っている銀行が多く存在しており、百六十銀行もその一つであった。

 第一次世界大戦後の反動不況の下で日本経済が抱えていた諸問題が複合して生じた金融恐慌であったが、より直接的な原因としては、関東大震災の際に支払いを猶予された震災手形の処理をめぐる… → 続きを見る


続きは会員様のみお読みいただけます。

 

会員の方は、こちらからログインしてください → 会員ログイン

 

会員登録をすると、続きをお読みいただけます → 会員登録

 

区切り線