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社会 / SOCIETY

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生 #5(後)

公開日時:2014-11-02

 

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生   #5(後)

■水野 健「実業界」にデビュー

西山正行――小佐野賢治と双璧をなす戦後の傑物実業家だ。大宮国際ゴルフ場のオーナーであり、社台ファームと並ぶ大牧場、西山牧場を持つ、九州・小倉から単身上京して、法政大学卒業後、一代で財をなした知る人ぞ知る大物財界人である。
 ちなみに、西山牧場輩出の競走馬はかつては「シロー」の冠で活躍。天皇賞、有馬記念の(G1)2冠馬カブトシローは有名だ(現在は“ニシノ”の冠=G1桜花賞馬・ニシノフラワーなど)。
 こんな形でビジネスの世界に“片足”を入れた水野は「水野興業」を立ち上げる。これについては後で詳述するが、間違えないで貰いたいのは、このとき水野はあくまで東映のチーフスカウトだ。
 つまり、水野は3Aチームの有望選手を物色する傍らで“副業”としてのビジネスを展開していたのである。だが、その後は野球界から足を洗い(昭和42年)実業の世界一本で進む。
 水野のここまでの半生を振り返ると、1人残されたハルピンからの脱出、新橋・闇市での高松行きの決断――その後の水野の人生への“レバ”があった。そしてプロ野球入団後の“魔の1球”が水野健、人生3回目の“レバ”だったのかも知れない。
 本格的にビジネスの世界に足を踏み入れた水野は、昭和51年新宿に「水野興業」を設立する。
 最初の仕事は千葉県白浜町にあるリゾートホテル「白雲荘」の買収だった。これは千葉県選出で、大蔵大臣(現・財務大臣)を歴任した水田三喜男が、同ホテルに5000万円の貸しがあるので「なんとかしてくれ」との要請での買い物だった。
 買収額は1億円だ。いくら水野でも、右から左というわけにはいかない金額である。半分の5000万円のうち2500万円はなんとか用立てた。残りは2500万円だ。その経緯は割愛するが、児玉誉士夫―小佐野賢治というルートで調達した、という。そのとき、事務的な手続きをしてくれたのが、当時の児玉の第1秘書で、現東京スポーツ会長太刀川氏だ。
 この頃から水野の口からは、後で出てくる田中角栄を含めて、良くも悪くも“伝説的な大物”の名前が、ポンポンと飛び出してくる。
 これらの人脈については、じっくりと聞いて稿を改めるが、ひとつだけ大物とのエピソードを書いておく。
 戦後のヒーローといえば、必ず名前が上がるのがプロレスラーの力道山だ。力道山は実業家としても知られ、高級アパート(リキアパート)やトレーニングジムなどを展開するリキパレスなどが知られているが、そのひとつに「クラブ・リキ」というナイトクラブが赤坂にあった。
 あるとき、水野は力道山と後輩の森徹(元中日ドラゴンズ)に同クラブの買い取りを頼まれた。それでクラブが入居しているビルを調べてみると、前出の西山正行の所有だった。
 話はトントン拍子に進み、水野は「クラブ・リキ」を買収し、クラブ「アーサー」としてスタートした。クラブ・アーサーは当時の人気歌手・雪村いずみ、竹腰みよ子や中村八大、ジョージ川口、松本英彦などの有名なジャズメンが毎晩出演し、“夜の社交場”として一世を風びしたものだった。
 田中角栄との出会いは、ひょんなことだった。昭和50年頃の話だが、田中は新潟県で「防衛博覧会」を開催した。
 水野はこの開催にあたり、新潟県選出の高橋栄一郎代議士(防衛博覧会の副会長)から、当時、後楽園遊園地にしかなかつた「ジェットコースター・マッドマックス」をアトラクションとして入れたい、と頼まれた。
 水野はそれに応えてアメリカから、後楽園と同じ最新のジェットコースター・マッドマックスを輸入した。代金は“防衛博覧会会長・田中角栄”と署名・捺印された手形でもらった。
 ところが――。
 博覧会は客がまったく入らず大失敗に終わった。そのうえ大雨が続き、マッドマックスは故障し、散々の目にあった。追い打ちをかけるように、手形が不渡りになったという。信じられないことだが、田中角栄の名(あくまでも防衛博覧会の会長としての田中角栄だが)で振り出した手形が不渡りなのである。
 それで水野は角栄に掛け合うが、角栄は顔色ひとつ変えず、何もなかったかのように、
「失敗したのだから、しょうがないだろう。そのうち、なんとかするから」
と一言。「ヨッシャよっしゃ」の角栄節が目に浮ぶ。
 だが、田中角栄の言葉は嘘ではなかった。その後、角栄にはゴルフ場開発の用地買収などで、大変世話になったと水野は言う。
 話を戻す。
 この「白雲荘」のほか、当時、水野は新宿・歌舞伎町近くににビジネスホテル「クィーン」を建設し、また新宿と札幌ススキノには「スタッセ」というホテルを買い取り経営した。
 まさに少壮実業家といったところだが、手もとにある、ダイヤモンド社が53年に発行した『新宿経営学』に、それが詳しく書かれている。
 同書は「乱世を生き抜く企業群像」と題して、14名の若手経営者が取り上げられている。そのうちの1人として水野健が登場しているのだ。
 水野の項は“旅館からゴルフ場へワンオン”とのタイトルが打たれ、水野の経歴から始まり水野興業の全容が記されている。
 資本金は1億2500万円、従業員数325名、売上高45億円と、堂々たる企業だったことが十分に伝わってくる。
 そして当時、70億円の巨費を投入して、水野は埼玉県鶴ヶ島でゴルフ場(鶴ヶ島ゴルフ倶楽部)を建設中だった。
 それで先のタイトルが付いたわけだが、水野はこの時すでに、ゴルフビジネスを視野に入れていたのである。

(つづく)

 

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