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社会 / SOCIETY

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生 #5(前)

公開日時:2014-10-17

 

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生   #5(前)

■水野 健「実業界」にデビュー

 これを機に水野は何度もアメリカに渡る。
 当時、日本からアメリカに行くには直行便などはなく、ハワイ-シアトルを経由しての24時間にも及ぶ。
 なにしろ1960年、1ドルが360円の頃だ。日本航空の機種はDC8、プロペラ4発機。1度はこんな目に遭ったという。
 水野が乗っていた飛行機が、エンジンから火を噴いた。ウェーキ島上空のアクシデントだった。このままでは墜落――そして「死」だ。
 距離的にはハワイの方が近いが、追い風などを考慮して羽田に戻るのが良い、と機長は判断した。窓を覗くと、波がすぐそばに見えるほどの低空飛行である。
 結局は無事に羽田に戻ってきたのだが、満員の乗客から期せずして一斉に拍手がわき上がった、という。
 そしてまた、このへんが水野のすごいところだが、水野と仲間2人はエンジンを修理した同じ機で次の朝飛び立ったという。ほかの乗客は怖がって別の機を待っていたので、機内はたったの3人だ。エコノミーからファーストクラスに替えてくれて、酒も食事も全てタダである。
「軽いのでいつもより1時間ぐらい早く着いた」
 と笑う水野だが、少年時代の苛酷な体験を通しての「死」を畏れない水野の姿がそこにあった。
 さて訪米の目的である3A選手のスカウトだが、なかなか素質のあるプレーヤーはいたが、契約には至らなかったという。
 だが、その期間中、水野は多くのアメリカ人のビップと知己を得る。きっかけはキャピー原田(本名・原田恒男、日米野球界の橋渡しをした人物)だった。原田はマッカーサー最高司令官の右腕・マーカット少将の副官(中尉)を務めていた日系3世(妻は当時の日本の人気歌手・暁テル子)。
 後で、大リーグ・ドジャーズのスカウトマン、つまり水野と同業になる。その原田が水野に多くの大物を紹介してくれたのだった。プロレスの力道山の師範役だったハロルド・トキもその1人だった。
 プロレス界でいえば、グレート東郷も原田の紹介だった、おもしろいエピソードがある。水野がロサンジェルスに行ったときのことだ。そのとき、水野を迎えに来たのがゲタをつっかけたアントニオ猪木だった、という。“燃える闘魂・イノキ”若き日の時代のことだ。
 大物といえば、スティーブ・ウィンだ。当時「ミラージュ」「ゴールデンナゲット」「ウィン」等々の世界的な有名ホテルのオーナーと知られ“ホテル王”と異名をとっていた人物である。
 ジュークボックスの製造・販売の事業を展開していた(株)ジョーンズのR・F・ジョーンズもその1人だった。時はエルビス・プレスリー全盛時代。アメリカ中にロックンロールが流れ、コインで手軽に音楽が聴けるジュークボックスは至る所に設置されていた。
 ジョーンズがこう言った。
「水野、スカウトなんか辞めて、日本でジュークボックスを売ったらどうだ」
 当時、ジュークボックスを日本で販売する権利を持っていたのは、「セガエンタープライス」(現在のセガ・サミーホールディングスの前身)と「大東貿易」の2社しかなかった。ともにオーナーがアメリカ人だったからだ。
 当時は、今では考えられない様々な規制があった。それで、この種の器械は直接輸入ができなかった。
 ところが水野は、先の2社に割って入っていく。
 こんなカラクリだ。まずジョーンズ社が米軍キャンプに売り、それを中古品(米軍キャンプで使った)として、水野が購入するという手法だ。カラクリといったが、まったく合法的なやり方なのである。
 アメリカの流行は、時間を置いて日本に入ってくる。その頃の日本はベビーブーム世代の若者が文化の中心だった。彼らはアメリカの流行をすぐに取り入れる。
 水野のジュークボックスは当りに当り、スナックなどの盛り場、ボーリング場など若者が集まる場所には必ず設置された。
 大儲けである。なにしろ仕入れ値が1台7万円で、船賃が3万円程度。それを100万円で売れたのだから儲からないハズはない。
 そのほかフォード元アメリカ大統領をはじめ、ゴルフのアーノルド・パーマー、アメリカンフットボールのサンディエゴ・チャージャーズのオーナーのアレックス・スパノス、息子のディーン・スパノスなどなど、原田から紹介された大物は、キラ星の如く並ぶ。
 大儲けといえば、水野はこんな話をするのだった。
 舞台はラスベガス。とは言ってもカジノでの大儲けではない。
 前出の「ゴールデンナゲット」のスティーブウィンのほか「コカリオン」「MGM」「ショーボート」「アラジン」「デューンズ」のホテルのオーナーに、資金を貸していたという。
 当時の日本の金利は1.5%ので、アメリカでは8%だった。それを6%で貸したというのである。この金利差だ。儲からないのがおかしい。
 日本長期信用銀行(現在の新生銀行)の杉浦や北海道拓殖銀行(破綻)の山内らと懇意にしていた水野は、彼らを通して両行から資金を調達し、それをUS住友銀行(当時)に送金し、ホテルを担保に貸し付けたというのである。
 ピーク時は3000億ドルを回していたという。その4.5%だ。なんと135億円である。その時の仲間は武富士の武井保雄と西山興業の西山正行で、末端にミッキー安川がいた。

(つづく)

 

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