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社会 / SOCIETY

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生 #4(後)

公開日時:2014-09-30

 

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生   #4(後)

■東映チーフスカウト時代――鮮烈な印象が残っている水野が採った2人の選手

 さて浪商2年中退で、昭和37年に晴れて東映フライヤーズの一員になつた尾崎行雄。契約金は上積みされたものの、決して高い買い物ではなかった。
 翌年、本来ならば高校3年の年に、ストレート1本で20勝して、新人王に輝いたとのと同時に東映に初めての優勝をもたらしたのである。
 また同じ年に水野がスカウトした安藤元博(早大卒)も活躍(13勝)した。つまり水野は東映の初優勝に多いに貢献したことになる。
 尾崎はプロ通算107勝を上げている。正直言って、目を見張るほどの成績ではない。だが、そのうちの98勝は、入団5年間での数字だ。
 現在、売り出し中の日本ハムファイターズの高卒2年目の大谷翔平が球速162キロを出して話題を呼んだ。ちなみに、日ハムの前身は東映フライヤーズである。
 しかし、当時の尾崎は軽く160キロは越えていた、と多くの野球評論家が指摘する。尾崎行雄はまさに“レジェンド”なのである。
 そして、もう1人の男・大杉勝男。
 大杉は甲子園の経験もなく、高校時代(岡山県関西高校)は、まったく無名な選手だった。当然、プロからは声が掛からず、ノンプロの丸井に行く。
 あるとき、水野が知り合いだった丸井の岡田監督に「こんな奴がいるから、ちょっと見てくれ」と言われたのが大杉だった。ところが、守備(三塁手)はヘタで足は遅い。打撃の方はそこそこだが、とてもプロのレベルではない。
 だが母子家庭で育った大杉は、
「ここまで育ててくれた母親に恩返しをしたい」
 と、水野の目を見つめて、
「そのためにも、どうしてもプロに入りたい」
 と繰り返し、何度も頭も下げるのだった。
 そのとき、水野の頭に浮んだのは近鉄だった。もともと近鉄は水野がいた球団だ。そして当時、親友の根本陸夫がスカウトをしていた。近鉄時代の根本はキャッチャーで、水野とバッテリーを組んでいた。
 水野は大杉を根本に預けて、プロに入れるような体裁を整えてから入団させることを考えたのである。
 根本は親分肌の人で知られる。これを快く引き受けた根本は、大杉を神戸の自宅に呼び、1年間みっちりと大杉を特訓した。この特訓を経て大杉は、40年に東映に入団することになる。
 これには後日談がある。
 大杉が入団するにあたり、大杉の母親はとにかくお金が欲しいと言ってきた。当然、球団は大杉の契約金は出す。ところが、根本が大杉の“飼育料”・特訓料として300万円を要求してきたという。
「まぁ、しゃーないわ」と、水野は球団に相談して“根本分”の300万円を捻出したのだった。
 その後の大杉の活躍は知られているとおりで、50年にヤクルトに移籍して、史上初の両リーグ1000本安打を達成、56年には14人目の2000本安打を記録した。
“月に向って打て”――大杉を語るとき、必ず言われる有名なセリフだ。これは当時のヤクルト監督の飯島が大杉にアドバイスした言葉だという。
 だが、それを実践した大杉の技術や基礎体力は、根本の1年間の厳しい特訓が源流になっているのは間違いない。それを踏まえると、あのとき根本への“飼育料”300万円は、日本プロ野球界にとって、決して高いものではなかったハズだ。
 その後、水野は水原監督の命令でアメリカに行く、ラスベガスにあるサンディエゴ・パドレス傘下の3Aチームの若手選手をスカウトするためだ。
 人の運命は分らない。この訪米がその後の水野が実業の世界に踏み入れるきっかけとなる。

 

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