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社会 / SOCIETY

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生 #3

公開日時:2014-08-30

 

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生   #3

■高校野球でその名が全国に轟きわたる

 水野の苦難の「旅」はここでピリオドでは決してない。それはあくまで“コンマ”で、その後も水野の流転の旅は続く。
 新橋は水野の目的地ではなかった。目指すはハルピンに行くまで育った宇都宮だ。ただ東京に行けば何とかなるとの思いだった。
 東京行きの列車に乗り込んだ水野少年。車内といえば、モノクロ映画が映し出す文字どおり戦後の一コマだった。
 とにかく人、ひと、人だ。立錐の余地がなく、まだ11歳で小柄だった水野は、荷物を置く棚で寝ての移動だった、という。
 約1日半後、新橋に着く。東京は焼け野原だ。駅のホームからは新宿までが一望できた。ここから宇都宮に行くには、まず上野まで行かなければならない。
 しかしカネがない。思案している水野の目に飛び込んできたのは、駅前で靴磨きをしている同じ年ぐらいの少年たち。孤児の同じ“臭い”がするのか、その1人が水野に声をかけてきた。
「どこから来たんだ」
「満州から引き揚げてきたばかりだ」
「それで、これからどこに行くんだ。金があるのか」
「ない」
「ならば靴磨きをしないか。少し稼いでから動けば。俺が世話になっている親分を紹介するょ。そこに行けば、靴磨きの道具一式貸してくれる。ただし上がりは折半だ」
 その話に乗り、即答した水野。2人で親分の家に。その途中、奢ってくれたヤミ市でのすいとんの味は、いまでも忘れていないという。掘っ立て小屋のような家の主は、新橋界隈では名をなした女親分だった。
 こんな経緯で、しばらくのあいだ水野はにわかシューシャンボーイとなる。マチには並木路子の『リンゴの唄』が流れていた時代である。
 このとき、ある人物と運命的な出会いをする。後に東声会のナンバー2となるWだ。その後、大学時代にWと邂逅し、東和相互(株)社長・町井久之と知己を得ることになる。“猛牛”と言われた元東声会の大物右翼だ。社会人になって、水野は町井に何かと世話になるのだが、それについては後半の項で述べる。
 こうして新橋での生活を続けていた水野は、香川県の高松市に行く決断をするのだった。高松は父親の出生地だ。
 いまさら宇都宮に行っても何も無いだろうと、また母親の出身地である青森は寒い。ならば暖かそうな高松市という単純な発想だった。
 これが水野の人生、2度目の“レバ”となる。
 新橋から岡山そして玉野市の宇野へ、さらに宇高連絡船で高松市に着いた。駅前には引揚げ者が泊る施設があった。ここには色んな人が親族を捜しに来る。
 この宿泊施設の人に、
「女の人が1ヵ月に1回ぐらい孫(水野のこと)が来ていないか、と捜している」
 と言われた。
 高松和洋高等女学校(和洋高女)の教師をしていた祖母のことだ。はたせるかな4日目に、水野はその祖母と出会うのだった。そして母親との1年振りの対面だ。昭和21年、水野健12歳のときだった。姉、弟も母親と一緒にいて、みな元気な顔を見せた。その頃は祖母のいとこの家に世話になっていた。
 “縁”というのは不思議なものだ。そのいとこというのは藤井静男で、早稲田大学(英文科)と京都大学(哲学科)の2つの大学を卒業し、高松商業の教師をしていた。
 その教え子の1人に水原茂がいた。巨人を追われた水原は、その後、東映の監督に就く。この縁で水野は東映に行くことになる(後述)。なお“政界往来”の名付け親となった、文豪・菊池寛も藤井の教え子だったという。
 その後、水野は1年遅れで中学に入学し、野球三昧の日々を送る。そして高校進学。水野は高松高を希望していたが、当時の高松市は地区制が敷かれ高松一高へ。
 中学時代から、その速球は、高松市ばかりか四国中に鳴り響いていた水野健だ。当然のように野球部に入る。1年先輩に“怪童”中西太(西鉄ライオンズ入団)、松岡雅俊(東映フライヤーズ)がいた。
 高松一高・水野の豪腕はうなり、昭和26年には甲子園に出場している。そして、その名は全国にとどろくことになる。
 それは「東口氏追悼大会」でのことだ。この大会は夏の大会(中等野球時代)を育て上げた功績があった東口真平氏の7周忌に当る26年9月に開催されたもので、選抜された過去の優勝高が覇を争う全国選抜高校野球大会だった。
 高松一高は、水野の好投で決勝戦まで勝ち上がり、決勝は平安高(京都)の対戦となった。水野の豪腕は冴え渡り、強打の平安をわずか2安打に封じ込め、夏の甲子園の雪辱を果した(4対2)。
 ここに、当時のスターティングメンバー表がある。投手で6番の水野は、打者としても4打数3安打の活躍だ。また不動の4番に座る中西太は、センターバックスタンドに豪快な1発をぶち込んでいる。
 なお、ここに載っている荒井姓が水野健その人で、実はその数年前から、水野は祖母の荒井姓を名乗っていたのだった。
 その後、早稲田大学に進学。ここでも野球一筋。だが当時の早稲田には、6大学を代表する木村保、石井連藏の2人の投手がおり、水野の活躍の場は余りなかったというが、4年のとき早稲田大学の新人監督を経験している。これは1、2年生の新人を育成する役割だ。後に国鉄に入団した徳武定祐や近藤昭仁(太洋ホエールズ)などが、そのとき水野に鍛えられた選手である。
 だが、その早稲田時代には8シーズン中、4回の優勝を経験したのだから、水野健、まさに青春を謳歌した時代だった。
 そして卒業、水野はひょんなことでプロ野球の世界に足を踏み入れることになる。
 長崎・佐世保での全早慶戦(OBも出場する)の試合中のことだった。何気なくスポーツニッポンを読むと「早稲田・水野健近鉄入団」の見出しが躍っていた。
 実は、水野は「いすゞ自動車」への入社が決まっていたのだった。当の本人が知らぬ間に、近鉄の入団が発表されたのである。その裏には、早稲田入学でも世話になった高松一高―早稲田の先輩・水原義雄が、当時の近鉄監督で早稲田出身の芥田武夫との間で、水野の入団を決めていたのだった。
 その頃、水野には洋服屋に30万円の借金があった。いすゞの監督の早稲田の先輩・山下はそのことを知っていて、水野に“入社支度金”として100万円をすでに渡していたのだった。
 つまり、水野は契約金を受け取っていたのだが、郷土の先輩であり、早稲田の先輩でもある人に決められ、また入団しなければアマチュア規程に抵触する可能性もあっては、従うほかはない。
 そんなことで晴れて近鉄に入団。昭和32年のことだ。驚くことに契約金は600万円。その1年前、中央大学から南海ホークスに入団した穴吹義雄が700万円で契約している。この穴吹の南海入団を題材にした『あなた買います』という映画が製作されたほどだから、そのき金額がいかに多額で、話題になったかが分る。
 ちなみに、昭和32年当時の大学卒の初任給は6000円程度で、新宿・歌舞伎町の土地1坪が3万円ぐらいだったという。
 話を再び水野の早稲田時代に戻すのは、先の契約金に関係するからだ。
 新宿の東口に水野が行きつけの「橋本」という寿司屋があった。そこの板前・北田親(通称チカちゃん)は早稲田野球部の大ファンで、水野が行くといくら食べても全てタダにしてくれた。そのほか森徹(中日)、近藤昭仁(太洋)、中谷(リッカーミシン)、木村(南海)、酒井(中日)がいた。
 また野球部の同僚を連れて行くと、こちらは全てが、たったの100円だった。それが4年間続いたのである。
 その後、600万円の契約金で近鉄に入団した水野健がいた。あるとき「橋本」の大将・橋本に呼び出されて、こう言われたのだった。
「お前の4年間のタダ分と100円分の寿司代は、すべて北田が負担していたんだ。卒業したのだから、せめて礼を言っておけ」
 と、聞いてびっくりしたと同時に感激してしまった。
 そんな裏事情を全く知らなかった水野。手もとには600万円という大金がある。たまたま歌舞伎町に約13坪、木造3階建ての売家があった。それは70万円だった。
 水野はその家を北田に買ってやり、お礼としたのだった。北田はそこで寿司屋を開いた。その名も「球寿司」――これは水野が名付け親だ。
 その後も店は早稲田野球部の行きつけとなり、北田(チカちゃん)が死去するまで40年間、水野は面倒を見た。
 いずれにしても、水野の知られざる性格の1面を物語る話だ。

                        (つづく)

 

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