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社会 / SOCIETY

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生 #2

公開日時:2014-08-15

 

流 転 ― 水野健・波瀾万丈の半生   #2

■運命に翻弄された少年時代

 水野は軍国主義時代の真っ只中の昭和9年に生まれた。生誕の地は栃木県宇都宮市小幡町。父親は陸軍の軍人で、当時、小幡町には宇都宮連隊があり、その官舎で生を受けたのだった。
 生誕の日は1月1日だ。その前年の12月25日に今上天皇が誕生、その後1週間以内に生まれた子どもには、缶に入ったシッカロールが配られたという。
 シッカロール――通称・天花粉である。あせも予防の撒布薬で今日のように医薬品が、山ほどある時代ではない。当時、赤ん坊のいる家庭では必携品だった。時代が偲ばれるエピソードである。
 その後、父親が満州駐在(関東軍)になったためハルピンに渡る。水野健5歳のときで、かの地の桃山小学校に入学する(そのほか花園、桜小学校があったという)。
 ハルピンには松花江(スンガリー・ロシアの呼名)という川幅1キロもある大河が流れる広大な大地だった。松花江といえば、水野はこんな光景の記憶が鮮明だという。
「冬になると河は氷結するのですが、ロシア人が氷に穴を開けて、すっ裸でその中に飛び込むのです。なにか宗教的な儀式だったのか」
 住いは中国九道街というところだった。近くには関東軍の総司令部があり、父親は関東軍の諜報機関の任務に就いていた。
 ハルピンの道路は全て石畳に覆われたオシャレな街だった。ハルピン駅の傍には日本政府が運営していた「ヤマト」という名のホテルがあり、駅とキタイスカヤ街の間には「トキワ」というデパートもあった。
 華やかな通りの方へ行くと、かつての北満一の国際商業街。白系ロシア人はじめ各国の商人の店舗が並ぶ、キタイスカヤ街(後に、仏「Paris d'Orient」〈東洋のパリ〉と称されたハルピンで最も華やかな通り)に「マルス」という高級なレストランがあり、水野は父親によくここに連れてこられた。
 店内には、いつもロシア人(主に政府に反対して国外に亡命した白系ロシア人)中国人、朝鮮人などの軍人や貿易商が集まっていた。父親は子どもそっちのけで、そんな連中の席に行き、水野は1人で食事をしていた、という。
 水野はその光景について、
「親父はそんな連中から情報を取っていたのでは」
 と想像し、当時に思いをはせるのだった。
 また松花江の向こう岸には太陽島という別荘地があり、夏休みなどには度々父親と遊びに行ったというから、水野家の暮らしはかなり裕福だったことが、うかがえる。
 だが、各地で軍靴が響き渡っている時代だ。こんな“平和”な生活が長く続くはずもない。案の定、水野の暮しは日本の敗戦を機に暗転する。
 ハルピンには、軍の関係者や満州鉄道の関係者で作った「満州協和会」という組織があった。事実上、満州を統治していたのはこの組織だ。
 8月15日、この協和会の家族を中心にハルピン駅10時に集まった。これより前、家族に日本に帰る号命が発せられていたからだ。
 当時、ハルピンから大連まで「特急アジア号」という世界有数の列車が走っていた。それに乗る為の集合である。
 日本に引き揚げるには、この特急アジアで大連、さらに錦州にある葫蘆(ころ)島まで行かなければならなかった。葫蘆島には引揚げ者の収容所があり、ここからはロシアや中国の貨物船(300人位は乗れるオンボロ船)、いわゆる引揚げ船に乗る。
 この日、ハルピン駅に集まった多くの日本人が「特別列車」に乗り込んだ。もちろん、その中に水野と母親、姉、弟の姿もあった。
 ところが、列車はなかなか出発しない。そのうち車内放送があり、
「12時に天皇陛下の玉音放送があるので、それを待ってから出発する」
 という。
 そして有名な玉音放送――日本は敗れた。しかし11歳の少年、水野には何がなんだか分からない。そのうち、列車に同乗していた1人の兵隊が、突然ホームに飛び出し「日本が負けた」と転がりながら泣き叫んだ。このとき水野も、日本の敗戦を理解したという。
 そんな喧騒ののなか、引き揚げ家族を取りまとめていた軍人から、
「これから何が起きるか分からないので、取りあえず家に帰って連絡を待つよう」
 との発表があった。
 水野親子も、その言葉に従い家に帰ったのだったが――。
 人生には“レバ”“タラ”は付きものだが、水野の最初の“レバ”は、このとき突き付けられる。
 水野親子が家に帰る途中、水野1人だけが父親のいる建物に寄り、久し振りに父親の顔を見た。これが運命の分かれ道となる。
 同胞、家族引き揚げの為の特別列車はその後出発するのだった。家に直行した母親、姉弟には連絡があって車中の人となり、列車は14時に出発した。
 残された水野少年。このときは、まだ家には父親が居た。だが翌日の16日、水野に過酷な運命が待っていた。
 突然、大型のジープが家に横付けした。そして数人の大男が、ドカドカと家に侵入してきたのだ。ソ連の国家政治保安部・ゲーペーウーの男達だった。時間は朝の8時頃、親子は食事中だった。
 そして、父親は男達にジープに乗せられ連れて行かれたのだった。父親は我が子に「直ぐに帰るから」の言葉を残して。
 しかし、それが水野が見た父親の最後の姿だつた。後から知った話として、
「親父はそのままB級戦犯となり処刑された」
 と、水野は重い口を開く。
 そして誰もいなくなった。敗戦孤児になった水野健。腹の底から湧き上がってくる孤独感――そこには「時代」「運命」に翻弄された11歳の少年、水野がいた。
 だが学校に行くと同様の境遇の生徒が沢山おり、その子ども20人ぐらいが水野の家(鉄筋3階建てで大きかった)で寝泊りすることになる。
 育ち盛りの少年20人だ。すぐさま食料がつきた。ここからが水野健の真骨頂だ。
 親父の知り合いだった人たちに次々とあたり、子ども達の仕事(家の掃除、中華料理の皿洗い、タバコ売り、材木運搬の手伝い等)を紹介してもらい、それぞれに働き口を割り当てたのだった。
 そんな生活で何とか糊口を凌いでいたが、やはり日本への思いは募る一方だ。
「日本に帰りたい」、いや「日本に絶対帰る」――水野は決断する。
 ちょうどその頃、抗日戦争時代の毛沢東の共産軍・八路軍が、蒋介石の政府軍を追い詰めていた。水野には馬に乗った中国人同士の殺し合いが、いまでも脳裏に焼きついている。
 完全な内戦、市街戦だ。この戦いにより、ハルピンにあった鉄橋は爆破されたのだった。
 帰国のための鉄道のルートは断たれたのである。まずは錦州(引揚げ収容所が錦州にあった)に向かって歩くしか術はない。水野の決断は早かった。線路伝いに歩けば、錦州に付くはずだ。
 冬は零下30度になる厳寒だから、夏を待っての出発。これから、水野を「大将」とする総勢20人の子どもたちの約1000キロにも及ぶ、苦難の“行軍”が始まる。
 ところがその第1歩で、少年たちの前には“難敵”が待ち構えていた。皮肉なことに、それは水野が慣れ親しんだ大河・松花江だ。そこに架かっていた鉄橋が爆破されていたのである。泳いで対岸に行くにも濁流である。しかも、その距離が半端ではない。少年の体力では絶対無理だ。
 とにかく渡らないと始まらない。そこで水野が考えたのはイカダだ。みんなで木を集め、イカダを5台ほど組み立て、それぞれに4〜5人乗って、なんとか対岸に着いたのだった。
 まるで、フランスのジュール・ヴェルヌの作品『15少年漂流記』(はからずも最後は15人となる)を読む思いだ。しかし、これは少年達の冒険記では決してない。水野が直面した紛れもないノンフィクションだ。
 それは、むしろ小さな漁船にスシ詰めになって、国を脱出したベトナム難民や北朝鮮からの脱北者を彷彿させる。
 こうして松花江を渡ったものの、むしろこれからが本番だ。大連さらにその先にある錦州・葫蘆島を目指す長い道程が待っている。
 当初、昼間歩き夜は休むという予定だった。ところが、八路軍と政府軍のドンパチが激しくなり、昼間は危なくて動きが取れなくなった。頻繁に線路上を南下する開拓団員が銃撃され死亡していた。
 それで、その後は逆の行動を取る。ハルピンにはスイカ、ジャガイモ、コーリャン、トウモロコシ等々の畑が続き、食べ物には意外と不自由はなかったという。もちろん盗み食いで、飲料水は道に溜まったドロ水だった。
 幕は必ず降りる。ハルピンの家を出発して約2ヵ月、ついに目的地、引揚げ収容所のある錦州に着く。ここでのコウリャンと粟の食は空腹にはとてもおいしかった思いがある。錦州に着いたのは水野を含めて15人だった。
 収容所には1000人以上の日本人が船を待っていた。ここから出る船は長崎・佐世保と京都・舞鶴へのルートがあった。
 水野が乗船したのは佐世保行きのソ連の貨物船で葫蘆島から3日、昭和21年12月21日水野はようやく日本の地を踏んだのである。日本上陸の際、体中にDDT(白い粉末)をかけられ上から下まで真っ白になった思いがある。消毒のためだ。
 少年期のこんな“異常”な体験が、その後の水野の生き様に影響を与えないわけがない。
 さらに死体が丸太のように転がっていた光景だ。水野が当時をしみじみと述懐する。
「公園の“舞台”では民衆裁判が行われ、そこで銃殺される日本人を何度も目の当たりにした。“死”に対する恐怖が、全くなくなった。早い話、恐いものがなくなった」
 その後の水野の人生に、否応なしに投影される。
 佐世保には引き揚げ援護局があり、そこで引き揚げ者に対して、大人800円(当時の貨幣価値)子ども400円が支給された。ここでも水野生来の“タフネゴシエーター”ぶりを発揮する。
「大人の助けを受けずに、やっとここまで来たのに、なんで俺たちが半額なのだ。まったく理不尽だ」
 と座り込んでの交渉だ。
 水野自身は金の価値は分らなかったが、ついには800円をぶん取ったのである。
 さて、これからどこに行くか――。同地で14人の仲間と別れ、水野は1人で東京・新橋に向かう。2ヵ月にも及び苦難を共にした信頼できる仲間だ。「いつかまた会おう」のセリフで涙の別れ。映画でよく観るワンシーンが目に浮かぶ。

                           (つづく)

 

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